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オーシャンの系譜(21) 三楽酒造 川崎工場。

八代工場と並び、三楽酒造の主力工場だった川崎工場の話である。

昭和10(1935)年
4月
昭和酒造、アルコール製造用として川崎工場(第一工場)竣工。

蒸溜室



当時の住所表記は、川崎市八幡塚2964番地の1
現在は、川崎市川崎区鈴木町3-1
因みに町名の鈴木町は、「味の素」創業者鈴木三郎助に由来する。
「昭和酒造」創業者で、味の素二代目社長でもあった鈴木忠治は、三郎助の弟である。

昭和12(1937)年
2月
合成清酒工場として第二工場竣工。
9月1日
合成清酒「三楽」を発売。

第二工場の現在の住所表示は、川崎市川崎区港町13番地である。

合成清酒の製造認可の申請は、会社創立後間もなく昭和10年早々に提出された。もちろん免許の獲得には多少の障害は予想していたが、基本的には自由造石時代であったので、製造認可について鈴木忠治社長以下会社幹部は楽観していた。しかし、当社の合成清酒の製造申請にたいしては、清酒業界および当時9社ほど存在していた合成清酒メーカー側からの予想以上の強い反発に直面した。既成業界への新規業者の参入は、革新と需要創造を促進し、結果的には当該製品の市場全体を拡大させることは、一般にみられるところであり、合成清酒の場合もまさにそうした経緯を経ることとなるが、当社の場合、鈴木忠治社長が日本一を内外に標榜し、かつ「味の素」の姉妹会社であったために、必要以上に清酒業界や同業他社に脅威を与え、反対運動を刺激したのであった。
第二工場は、第一工場製造の含水アルコールをパイプ輸送して合成清酒を製造するもので、技術自体にはそれほどの困難はなかった。

昭和16(1941)年
11月
昭和農産化工に社名変更。

昭和20(1945)年
8月15日
終戦。
9月
川崎工場、アルコール作業再開。
創立の原点であるアルコールおよび合成清酒の製造に戻る。

昭和24(1949)年
5月24日
焼酎(甲類)製造免許下付。
6月25日
三楽酒造に社名変更。

昭和30(1955)年
7月
アルコール蒸溜機アロスパス式に改造。

昭和31(1956)年
7月
アルコール蒸溜機スーパーアロスパス式に改造。

昭和32(1957)年
2月18日
サンラック・ドライ(甲類焼酎)発売。
スーパーアロスパス式蒸溜機の設置によってアルコールの品質が極めて純粋になり、これを使った甲類焼酎を製造、販売する。焼酎ではあったが、洋酒的なイメージを与えるため、洋酒ブランドのサンラック(SUNLUCK)を使用。

サンラック・ドライの革命は、容器を正1合(180ml)の透明白びんに簡潔なネームを色プリントしたスマートなものにしたことである。それは焼酎といえば甕(かめ)あるいは1升青びんまたは青中形びんという通念を打破するものであった。
サンラック・ドライのキャッチフレーズとして当社が用いて当時有名になったのは「毎日1本パパの牛乳」というものであった。これは晩酌を想定しているが、家庭的で健康なイメージによって、従来の焼酎に対する観念を一変させるものである。

現代では、「毎日1本パパの牛乳」は許されないだろう。(苦笑)

昭和33(1958)年
12月
モルトウイスキー原酒の製造開始。
東京タワーが完成(12月23日)した年である。

どのようなモルト製造設備が、第一工場第二工場のどちらに設置されたか、などは不詳。
私の想像だが、モルト原酒の製造設備も、のちに導入するグレーンのコフィースチルも、消防法(危険物の取扱い)と蒸溜技術者の作業性から考えて、アルコール設備を備えた第一工場にあったと推測している。

昭和36(1961)年
9月16日
発泡酒試験製造免許下付。
ビール部門への進出を断念するに至った話は、以前書いた。

10月12日
山梨工場が竣工。
川崎工場、モルトウイスキー原酒の製造中止。

製造期間は、3年弱であった。

昭和37(1962)年
7月1日
オーシャン(旧大黒葡萄酒)を買収。

昭和44(1969)年
6月
グレン・ウイスキーの製造開始。

川崎工場ではグレン・ウイスキーの製造を行うことになった。製法としては本場スコットランドのそれを導入することにして、酒類研究所藤坂高昭を英国に派遣した。その結果、スコットランドで使用されている蒸溜機コフィスチル(英国マクミラン社製)を輸入し、これと糖化槽糖化液濾過用ロイターなど設備一式を川崎工場に設置した。製造開始は昭和44年6月で、原料には南アフリカ産のホワイトメイズを使用した。
すなわち、昭和44年より、原酒の種類では軽井沢がモルトを、川崎がグレンを製造し、貯蔵はいずれも軽井沢および山梨工場が行うという基本体制が確立した。

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「ある洋酒造りのひとこま」より、
戦後が終わったといわれた昭和35年頃から、経済成長の影響もあって、次第に高級志向が台頭し、日本のウイスキー消費傾向も2級ウイスキーから1級、特級ウイスキーへと変化していった。当時のウイスキー商品はモルト原酒と醸造用アルコール(ニュートラル・アルコール)をブレンドしたタイプであって、本場のブレンデッド・ウイスキーは、コフィースチル(連続蒸溜機)によるグレーン・ウイスキーとモルト原酒とがブレンドされている。日本でも高級ウイスキー志向にあたって、コフィータイプの蒸溜機によるグレーン・ウイスキーのブレンドが始まりつつあった。ニッカはスコットランドで学んだ創業者の竹鶴政孝氏の思想から、いち早くコフィースチルを輸入し、製造開始(*)をしていた。
(*)昭和39年。
1960年代のスコットランドに、カフィ式蒸溜器を作るメーカーが、少なくともブレアーズ社(ニッカ)マクミランの2社あったことが分かる。

当社も、昭和42(1967)年藤坂さんがスコットランドで研修し、昭和44年にコフィースチル(Mc.Millan製)を購入して川崎工場でグレーン・ウイスキーの製造を開始した。設備の一部は山梨の遊休設備から移転し、川崎のアルコール設備を使用して昭和44年6月から稼動した。製造開始にあたり、本社製造部の洋酒担当として転勤命令が私に下った。この年から私はウイスキーとワイン等に関する製造計画、品質管理、輸入原料などを幅広く担当することになった。

創業時のグレーン原酒には、粕取臭や魚油臭、特異臭が感じられた。しかし酒類研究所の藤坂清水青柳諸氏の懸命な尽力によって(中略)、当時入手できたグレーン・ウイスキーの中では最良であったインバーゴードンの品質に近いタイプを生産することが出来た。そして、川崎工場の遊休建物を改造し、バーボン樽を使用した貯蔵設備も設置したのである。

閉鎖された工場の常だが、グレーンウイスキーの製造がいつまで行われていたか不詳である。ただしベンチャーウイスキーが貯蔵する川崎工場製造のグレーンの履歴から、ある程度推定は可能だろう。




【参考図書】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)
■ ある洋酒造りのひとこま (関根彰著。平成16年6月24日発行、たる出版刊)

#オーシャン

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