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追悼・中川昭一氏 見果てぬ「青嵐会」の夢

んー
酒だけが原因ではないのになー
残念な方を亡くしましたね。

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/sankei-m20091009042/1.htm

2009年10月9日(金)8時0分配信 産経新聞

 中川昭一氏は眠るように棺に横たわっていた。2月の“酩酊(めいてい)”会見で財務相を辞め、
先の衆院選に落選しただけに悔悟の念にさいなまれたのではないか。
苦悶(くもん)の表情を残して逝ってしまったのではないか。
そう胸を痛めていたことが恥ずかしくなるほど、その表情は安らかだった。

 最後に中川氏と会ったのは衆院選3日後の9月2日だった。
午後6時過ぎなのにフラフラの足取りで現れたので、つい声を荒らげてしまった。

 「酒はやめたんじゃなかったのか。あなたが財務相を辞めた時、麻生太郎首相は泣いていたんですよ」

 中川氏はシュンとして「すまん、ホントにすまん」と言いながら半時間ほどで帰っていった。
あれが今生の別れとなるとは。なぜもっと励ましてあげられなかったのか。悔やまれてならない。

 中川氏は「うわばみ」と思われてきたが、私が知る素顔はまったく違う。
恐ろしいほど真面目で礼儀正しく、冷たいお茶を傍らにチビリチビリと酒を飲みながら、
政治、外交、環境、文学、そして人生について大いに語らう。
興味のある話にはメモを取りながら熱心に聞き入り、つまらないジョークを言ってはバツが悪そうに照れ笑いする。
少年がそのまま大きくなったような人だった。

 ただ、腰に椎間板(ついかんばん)ヘルニアという“爆弾”を抱えていた。
痛みに耐えきれず、強い鎮痛剤、精神安定剤、そして睡眠薬を飲む。
そんな状態で酒をわずかに飲むと意識がぶっ飛ぶ。
この悪循環を繰り返していた。
例の酩酊会見も「ワインを口に含んだだけ」と言うのは決して偽りではなかっただろう。

 「政治家を続けたいなら渡米して手術すべきだ」と迫ったことがある。
神妙な表情で聞いていたが、「だって怖いだろ…」と首を縦に振らなかった。

 そんな中川氏に政治家の執念を見たことがある。4年前のことだ。

 国会近くの事務所で一緒にビールを飲んでいると「これを見てくれよ」と古びた茶封筒を取り出してきた。
中を開けると「青嵐会」の血判状だった。
昭和48年、父の故中川一郎氏が政界に風穴を開けようと血気盛んな若手・中堅を集めて結成した政策集団。
徹底した対中強硬路線が災いしたのか、ジワジワと他派閥の切り崩しを受け、6年後に解散してしまった。

 驚いたことに大量の脱会届も同封されていた。血判まで付いた仲間の裏切り。
一郎氏の無念の思いをかいま見たような気がした。
中川氏は何も言わなかったが、胸中にあったのは保守勢力の結集であり、青嵐会の再興だったに違いない。

 実は中川氏が青嵐会の旗揚げを思い立ったことがある。
平成19年秋、福田康夫政権発足後まもなくだった。
「保守の信条を共有する若手を集めて勉強会を作ろうと思っているんだ」と言うので
「次の首相を目指す気がないならば時期尚早ではないか。
たった一枚のカードなんだから機が熟すまで大事にとっておくべきだ」と答えた。
中川氏は不満そうな顔をしていたが、結局、その勉強会は「真・保守政策研究会」という平凡な名称に落ち着いた。

 こんなに早く逝ってしまうならば、あの時に「青嵐会にすべきだ。今こそ父の遺志を継ぐべきだ」と言えばよかった。
悔やまれて悔やまれてならない。

 政治家としては、あまりに純真で、あまりに繊細で、そして不器用な人だった。
10月17日からは妻、郁子さんとエジプト旅行を予定し、心待ちにしていた。
今ごろ中川氏の魂はピラミッドの上空に広がる蒼穹(そうきゅう)を飛び回っているのではないか。(石橋文登)

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